福島へ移動の2日目。
目的地は喜多方の御沢野営場。
距離は133キロ。まっすぐ向かえば4時間程度。
あまり早く到着してもすることがない。
どこか面白そうなところはないか。
探していたら、見つけた。
まずは南会津へ
2日目の朝7時、那須塩原のゲストハウスを出発し、近くのコンビニで朝食。
なんとおにぎりを買ったらペットボトルのお茶が一本ついてきた。ラッキー。
まずは南会津へ向かう。
ほぼまっすぐな平坦な道から山道に入る。峠越えだ。
標高が上がっていくにつれ肌寒くなってくる。
しばらく我慢して走っていたが、峠を越えて少し下っていくと道の駅があったのでそこに入る。
さっき道を右折してからライダーが急に増えていた。その多くがこの「道の駅たじま」に入っていく。
ここでウインドブレーカーを出して着ようと思っていた。ところがバイクを止めると暑かった。
結局、少し休んで上着は着ないで出発する。
山道から谷間の平坦な道になる。ほぼまっすぐだ。もう寒くない。風が心地よい。
民家は道路側に等間隔で建てられている。たいてい庭はなく、家の裏手は田んぼが広がっている。
この光景は以前見たことがある。
前の職場の先輩が会津田島の出身で、その実家に同期の仲間で挨拶に立ち寄ったことがある。その時に見た景色と同じだ。
先輩の父上はこのあたりの名士だということだった。その先輩が若い頃、寄り合いで酒を飲み過ぎて田んぼに落ちて助けられたという話を思いだした。
後から聞けば笑い話だが、時期は秋。もし、村の人たちが探しまわって見つけてくれなかったら、その先輩は先輩としていなかっただろう。
会津田島から左に折れる。
そういえば同期で来たのとは別に家族でスキーに来たこともあった。
スキー場の名前は忘れてしまったが、この道を走ったのではないか。
そんなことを考えていたら、スキー場の看板が現れた。
「会津高原だいくらスキー場」。ここだ。
あのときスキー場の少し手前の民宿に泊まったのだった。
その民宿の若女将は我が町の近くの町の出身だということで驚いた。
あの民宿はどこだったろう。
確信はないが、それらしき民宿が建っていた。家族で泊まったのは、25、6年前くらいのことだから、まだ営業していてもおかしくない。
河井継之助記念館
次に向かう先は只見である。
スキー場のあたりから山道になり、そこを抜けるとふたたび谷間の平らな道が続く。
そうやって気持ちの良い道を走っていくと、只見線只見駅にでた。
ここを右折する。
走っていくとほとんど店屋が見当たらない。この辺りの人たちは買い物はどうしているのだろうかなどと考えながら走っていく。
それに民家も南会津とはだいぶ違っている。雪への対策がされていることがこの暑い夏でも感じ取れる。
後で聞いてみたのだが、やはりこのあたりの降雪量はものすごいらしい。だいたい2、3メートルは積もるのだそうだ。
只見線に沿って走っていくと、何台かのバイクがぼくを追い越して行った。走りながら電車(ひょっとしてディーゼル車?)が走ってこないかと気をつけて見ていたが、走ってはこなかった。
さて、今日の移動中のメインは河井継之助記念館に行くことだ。
自転車日本一周中には新潟県長岡市の河井継之助記念館に立ち寄った。継之助は長岡藩の家老だった。これから行く只見町の記念館は、河井継之助が亡くなった場所である。
河井継之助を知ったのは、司馬遼太郎の「峠」を読んでである。最近、映画になった。ぼくは最近Amazonプライムで観た。長岡市の記念館に立ち寄った時(2019年6月)は、たしか映画の撮影が終わったばかりの頃で、もうすぐ公開されるということだったと思う。
それが、新型コロナの感染が広がって延期になり、ようやく最近(2022年6月)公開されたのである。
映画では官軍と戦いになる直前から、戦の最中に負傷して福島県只見町に落ちのびてそこでなくなるまでのことが描かれている。残念ながら、継之助が中立の立場を取ろうと考える経緯が描かれていないので、ちょっと消化不良な感じがした。
河井継之助記念館
10時20分頃、河井継之助記念館に到着。
わかりにくい場所なので、ナビがなければ迷っただろう。
ちょうど同じ時刻に、ぼくより少し年上と思われるご夫婦も一緒に入館した。
すると受付の方から、我々に向かって「もし、お時間があるのなら、今日はガイドがいるのでご案内しますがどうしますか」と尋ねられた。
そして30分くらいあれば一通り説明できるというので、案内をお願いした。
現れたガイドさんは女性で、ぼくよりも少し若い感じだった。
説明は、亡くなった時の状況を細かく話してくれたばかりでなく、継之助の人となりがよくわかるように説明してくれた。
その説明は世界の状況(外国勢が日本を狙っていたという背景)を交えていた。明治維新というものをよく理解しているなという印象をもった。
説明は継之助だけではなく、継之助の下僕、松蔵のことにまでおよび、松蔵が継之助の言いつけを守って経済人となって成功したという話も聞けて大収穫であった。
ちなみに松蔵は栃尾の出身だそうである。ぼくが生まれたのも旧栃尾市(現長岡市)なので、なんだか誇らしく感じてしまった。
館内を巡った後、近くにあるという継之助の墓にも案内してもらい、手を合わせてきた。
記念館に戻る途中、近くに生えていた木は五葉松だと教えてくれた。墓のあたりから見える山々が尖っているのは、そして山頂あたりだけ木々が生えているのは、雪崩で中腹が削られるからだと教えてくれた。その山頂に生えているのが五葉松なのだそうだ。
そのガイドさんは渓流釣りで何度も訪れているうちに年の半分をこの只見で過ごすようになったのだという。そして残り半分はなんとぼくの住んでいる平塚市の隣にいるという。
ガイドさんはなかなか活動的な女性であった。
天然炭酸水
記念館を後にして少し走ると、天然炭酸水という看板があった。面白そうなので駐車場にバイクを止める。
ついでにトイレ(とてもきれいだった)を借りて、どこから天然炭酸水が出ているのかと見回したらそこから山の方へ向かう道に案内板が立っていた。
バイクに乗ってその道を奥の方へと進む。左に曲がるとまた駐車場があってそこにたくさんの車が停まっていた。
その一番奥に荷物用のカートをつけたスーパーカブが止めてあったのでその後ろにこちらのスーパーカブを停めた。
ペットボトルの水筒をもって歩いて炭酸水が流れているところへ向かう。
ポリタンクにたくさんの水をためている人がいたが、途中でこちらに場所を空けてくれた。
カブの停めてあるところに戻っていくと、先に停めてあったカート付きのカブの運転者が戻っている。そこへ車で来たおばちゃんが近づいていって何か話しかけていた。
変わったものを見ると話しかけずにおられないのがおばちゃんなのだ。とはいえぼくも同じ気持ちで近づいて行って話に加わった。
おばちゃんは今度はこのぼくに向かって言った。
「どちらの水を汲んできました?」
「えっ、あそこの水が流れているところですけど」
「左側に小屋みたいのがあったでしょう。そこにやかんが置いてあって紐で汲み上げられるようになっているの。そちらは炭酸が濃いのよ。今汲んできた水を少し飲んだら捨てて両方を飲み比べてみるといいわ」
「そうなんですね。それじゃ後で行ってきます」
そんな話をしておばちゃんは車に戻って行った。
さて、カブライダー。後ろのカートにたくさんのキャンプ道具を載せている。そしてマフラーやらサスペンションを変えていた。
三十代後半から四十代半ばくらいだろうか。ともかく何もかもが個性的である。
その彼は新潟の新発田市からやってきたそうだ。どうやら暑さを逃れるためにやって来ていてこれから檜枝岐に行くところだとか。
見たところカブは原付(50CC)なので、カートを引いていて坂道とか問題ないかと尋ねると、どのくらいかは忘れたがボアアップしているので問題ないとのこと。しかし、カートが弱いので、あまりスピードは出せないということだった。
最後に写真を撮らせてもらってそのライダーを見送った。
さて、少々長くなったので今回はここまで。
さらに続きます。
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