今年の春からずっと倦怠感が付きまとい、なかなか思うように山に行けなかった。
若い頃なら「来年もあるさ」とのんびり構えていただろう。
だけど、黄金の15年のうちすでに5年目に突入している。
黄金の15年とは多くの人が定年を迎える60歳から74歳までのことで、この期間が一番気力体力が充実しているのだそうだ。
つまり、75歳になるとガタッと崩れやすいということ。
だから、それまでにやりたいことをやってしまわなければ、挑戦しなければ、できなくなった時に心残りとなってしまう。
それで、まだ体調は完全ではなかったけれど、今年の日本百名山挑戦を再開することにした。
どの山を目指すか
昨年は、11月でひとまず百名山登山は終えた。
冬山は難易度が高いからだ。
昨年の登山開始は4月下旬から。今年も同じ頃にと思っていたところに人事異動。
ストレスから体調不良になる。
3ヶ月経ってようやく少し慣れてきた。いきなり体調は戻らないが、それでもようやくここ最近は少し上向いてきた。
そんな体調で、特に体力が落ちているのでそれに見合った山を探した。
まず候補にあがったのは、赤城山。
この山は昨年の最後に登ろうとした山だ。だが、キャンプ場は閉鎖されているのと、バイクでは凍結が心配で断念した。電車とバスで行く方法も考えたが、もっと快適な時に登ることにした。
今回、7月の連休に登山すると決めたのは10日ほど前だった。だから夜行バスなどは考えず、バイクで行ける範囲で検討した。
赤城山ももちろん候補になる。
他には皇海(すかい)山もバイクで行ける距離だ。
そして、今回登ることにしたのは武尊(ほたか)山。
決め手になったのは、下山時に登山道を歩くのが2時間程度と短いこと。
この前トレーニング登山で丹沢に行った時、下山で2時間を超えた頃から左膝に痛みを感じ始めたのである。
つまり、2時間までは大丈夫ということになる。
今回目指す武尊山のルートは、登山口から林道をしばらく歩く。だから、もしも膝が痛くなっても林道ならなんとか歩けるだろうという目論見だ。
おまけにその登山口のすぐ近くにキャンプ場がある。
ネットで簡単に予約も取れた。
そんなわけで武尊山を目指すことにした。
延々9時間のアプローチ
7月15日土曜日、朝7時半に平塚の自宅から出発する。
すぐに出発できるように前日に荷物を荷台にくくりつけておいた。
後から気がついた荷物は小さな袋に詰めて、ベトナムキャリアにくくりつけた。
この方法は便利だ。
そういえば、自転車で日本一周した時もナップサック型の袋を持って行っていた。
それは、その日調達した食料がパニアバッグに入り切らなかった時に背負うことができてとても便利だった。それを思い出したのだ。
ただし、百均のものは耐久性に難がある。途中で一つダメになり、今持っているのは2つ目だ。今回持って行ったのはこれである。
今回も到着間際のコンビニで買った弁当や飲み物(アルコール)を入れて背負った。ところが目的地についてみたらもうすでに綻び始めていた。もうひとつ小ぶりで少し丈夫な袋をもう一つ持っていった。これは翌日温泉に行く時に役に立った。
ともかく、このように追加の荷物があっても荷を解かなくて済むので、一つ持つことをぜひお勧めしたい。
あれ、このことに気がつかなかったのはぼくだけかな? これは失礼。
さて、スーパーカブのベトナムキャリアに取り付けた小さなバックにモバイルバッテリーを入れて、スマホとコードで繋ぐ。スマホはハンドルに取り付けたTIGRAへ装着して走り出す。
ナビはGoogleマップを使う。家の近くではナビを見る必要はない。そう思っていたら道を間違えた。最近は句会へ向かう時しか遠出をしていなかったので、ついそちらの方向へ進んでしまった。慣れとは恐ろしいものである。
246号を少し引き返し、相模原方面に進路を修正。早起きしたせいなのか頭がぼーっとしていた。割と道も混んでいて、ナビが裏道を案内してくれている。129号線から16号線に入る手前の裏道にあったコンビニで休憩し、コーヒーで頭をすっきりさせた。
今日向かう先は、みなかみ町にある宝台樹キャンプ場。若い頃に宝台樹スキー場へは何度か行ったことがある。だがいつも夜でさらに同乗させてもらっていたので道はまったく覚えていない。
予定のルートは、ほぼ北上する形で八王子から飯能、小川町を通り、深谷から17号で月夜野まで行く。その先は291号から63号線を通って目的地だ。
八王子までは八王子バイパスを通る。相変わらず車が多い。八王子からは16号に乗る。16号は道がまっすぐではないので気を遣う。
昔は川越に彼女がいてよくここを通ったものだ。あの頃はナビなんてものはなく、地図と道路標識を頼りに通っていたが、ときどき道を間違えた。それに八王子バイパスは有料だった。
この八王子から福生あたりを通るたびにそのことがつい思い起こされる。
ナビのおかげで運転がとても楽になった。そのかわり道がなかなか覚えられない。
そんな物思いにふけっていた16号を左に折れて飯能方面に向かう。ここからは車が少なくなり快適なツーリングとなる。
今日はありがたいことに曇りなので、多少楽だ。長距離走行のためしっかりプロテクターをつけている。脚には膝と脛を保護するプロテクター。これは自転車で階段一回転の時にしっかり保護してくれたという実績が証明されている。その上に少し緩めのジーパンを履く。
上は、メッシュのライダーズジャケット。昔ホンダが手がけていたブランドで今はもうなくなっている。最近のものと違うのは、胸当てがないこと。もう40年くらい前のものだが、まだまだ使えそうだ。
メッシュだから走っていると風が通り抜けてくる。だが止まると暑い。残念ながらヘルメットに風通し窓がないので(2つも買う余裕がない)、頭は暑い。
今回の旅でぼくのスーパーカブは、走行距離が1万3千キロを超えることになるだろう。チェーンはだいぶ伸びてきたのでそろそろ交換時期だが、エンジンはとても快調で、初期の頃より吹き上がりが良くなっている。相変わらず60キロ走行時だけは振動が大きいのが玉に瑕である。
高麗神社に立ち寄る
今日は、キャンプ場到着が午後4時半頃と連絡してある。だから時間に余裕があった。それにあまり早く着き過ぎてもすることがない。夕食は弁当にすることにしているし、焚き火道具も持ってきていない。
それでもテントはモンベルのムーンライトⅡ型(旧型)なので快適に過ごせるだろうし、ミニテーブルと折り畳みのスツールは持ってきている。
だから時間調整というほどでもないが、途中にある高麗神社に立ち寄った。高麗という地名は平塚にもある。確認はしていないが、おそらく朝鮮からの渡来人が居住した場所であろう。
鳥居のところに茅の輪があったので、左右に回りながら三度潜り抜けた。
拝殿に入る門には「高句麗神社」という名が掲げられていた。
立ち寄った埼玉県日高市の高麗神社はまさしくそういったところであった。
神楽殿には再現されたチマチョゴリが飾ってあった。
高麗神社のHPによれば、「高句麗からの渡来人 高麗王若光を主祭神として祀る社」ということである。高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)渡来のいきさつは次のように書かれている。
天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が分かります。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。
また、続日本書紀(巻第7)には霊亀2(716)年、関東一円にいた高句麗人1799人が武蔵国に集められて「高麗郡」が創設されたことが書かれているとのことである。
拝殿に向かい、日本が高句麗のようにならないようにと手を合わせた。
月夜野の矢瀬遺跡
深谷から17号に入る。
ここでは皆スピードを出して走っている。
流れに乗るようにアクセルを開ける。
前方に大きな山の塊がいくつか見えてきた。
間近に迫っているのは赤城山だ。
他の山はどこの山だか分からない。
喉が渇いたので渋川のコンビニで休憩。熱中症にならないためにも水分補給は大切だ。
バイクを停めてエンジンを切り、スマホを外そうとしたらスマホが振動している。
アレっと思ったら振動しているのは手の方で、ずっとハンドルを握っていたので感覚が残っていたのだった。
ここで沖縄パインミックスというジュースを飲んだ。
目的地まで後残りわずかだ。もう一踏ん張り頑張ろう。
月夜野で道の駅矢瀬親水公園の案内板が見えた。
ここに弁当が売っているかもしれないと思い寄ってみる。
野菜はたくさんおいてあったが弁当はなかった。
ついでにトイレに寄る。それは外の少し下の方にあった。
行ってみるとトイレの正面に遺跡の復元された建物が見えた。
そこには矢瀬遺跡と書かれてあった。
見たところ縄文遺跡のようだ。
復元された建物の内部に入ってみると、いきなり灯りがつきそこに人がいて驚いた。
人というのは縄文人の模型で、家族で火を囲んでいるのだった。
他にも柱が六本立てられているものがある。これはあの三内丸山遺跡で有名になったやつと同じのようだ。実際には何の目的で建てられたのかが不明というやつだろう。
もし、同じような構造の建物が建てられていたとしたら、当時の縄文人は繋がりがあったということになる。
そして現在、冬には相当冷え込むこの地域に多くの縄文人が住んでいたということは、当時の気温が今よりも高かったということである。
そんなことを思いながら縄文の遺跡を歩いた。
あとからこの矢瀬遺跡を調べると、次のように紹介されている。
上越新幹線「上毛高原駅」より徒歩約10分ほどの利根川の河岸段丘上で発掘された縄文遺跡。今から3500年から2300年前の縄文時代の住居と祭祀遺構、水場など、狭い範囲にこれらの施設がそろって発見されたため縄文時代の集落構造が分かる遺跡として知られている。
次回へつづく