先日、登山中にふと昔の歌のメロディが浮かぶ。
そのことをブログに書いていて祖母のことを思い出した。
そこで少し祖母のことにも触れたが、あらためて祖母の人生について考えてみたい。
他人である祖母
(出典:Photo AC)
今振り返ってみて、祖母はやっぱり他人だった。
聞いたところによれば、祖父の三番目の妻である。
祖父はぼくの父の父で、父の(知っている)兄弟はすべて初めの奥さんの子供になる。
二番目の人はどんな人だったか全く知らない(祖父の相続手続きの時初めて父に腹違いの弟がいたことが判明)。
以前書いたように、ぼくの知っている祖母は下町芸者だった人で、子供の頃に年に1度くらい祖母の家を訪れると、長火鉢に炭を起こしてその上に鉄瓶を掛け、その横に正座してタバコを吹かしていた。
ぼくらの家族が行っても特に喜ぶ様子はなく、父のことは「にいさん」と呼び、母には座ったままいろいろな指示を出すのだった。
そしてかしこまって座るぼくと姉に、「そこの戸棚の引き戸を開けなさい」と厳しい口調で言った。
引き戸を開けると和菓子が皿の上に置いてある。
「出して食べなさい」と祖母が言う。
命令されたかのように反応してかしこまってそれをテーブルに置く。食べないと叱られるような気がして緊張してだまってそれを食べる。
だから、おっかないお婆さんのイメージしかなかった。
祖父はその頃寝たきりで、少し騒ぐだけでうるさいと叱られた。こちらもこわいお爺さんだった。
祖母との1年
それがどういうわけか、小学校6年になる頃からちょうど1年間一緒に暮らすことになった。
1年だったのは母が祖母に音を上げたのだと思う。
しかし、1年間一緒に暮らしたおかげで祖母の生活ぶりが少し記憶に残ることになった。
祖母は踊りと小唄の師匠だったが、その頃は踊りの方はやめていたと思う。それでもよく出かけており、付き合いの幅も広いようだった。
ときどき家で三味線の練習をしていた。一度譜面を見せてもらったことがある。しかし文字ばかりの譜面でまったくわからなかった。
三味線は祖父の寝ている部屋に掛けてあり、襖が開いた時にそれがチラッと見えた。祖父の部屋に一人で入ることは決してなかった。
あるとき、隣の長火鉢の部屋で姉とトランプをしていたところ、祖父にとても叱られたことがある。後から父に聞いたところによれば、祖父は花札賭博をしていて警察のご厄介になったことがあり、それで厳しいのだということだった。
子ども心に「花札とトランプは違うのに」と思ったが、今思えばどちらも賭け事に使われるのであまり違いはない。それよりも賭けをするかしないかというほうが大きい。いずれにせよ賭け事はしていないのにこっぴどく叱られたことが記憶に刻まれた。
祖母は出かけるとよくお土産を買ってきてくれた。たいていは人形焼かくず餅だ。他にもあったとは思うが、それしか思い出せない。
祖母の生涯
祖母に家族はいなかったようだ。
ゆいいつ妹がいたが、これも置屋での姉妹。血は繋がっていない。
その妹が一緒に暮らしていたので、ぼくはおばさんと呼んでいた。ぼく以外はみなキミちゃんと呼んでいた。
祖父もぼくらが出て行った1年後くらいになくなり、それからは祖母の話し相手はこのキミちゃんだけだったように思う。
祖父が亡くなって数年後、祖母が四国のこんぴらさん参りに行き、その旅先の高松で脳梗塞により倒れてしまった。このときから亡くなるまでの十数年、父と母が面倒を見ることになる。
他の兄弟はだれも面倒を見なかったのだ。
その後、さまざまな問題が起きないように、父と母が祖母と養子縁組をして正式に親子となる。
そうしてぼくの父も母も亡くなり、遺品整理をすると三味線や師範の免状など祖母の遺品がでてきた。
そこには若い頃お祭りで撮った写真があった。
そこにはあの長火鉢の前で見たときと同じように、笑顔を見せずにキリッと口を結んだ祖母の顔があった。
最後に
ぼくの知っている祖母は断片的で、それもほとんど話をしたことがないものだから、実際はどんな人だったのかはよくわからない。
けれど、きっと泣き言も言わず、一人で生きていく強さを持った人だったのだろうと思う。
逆に言えば、甘えることが苦手で弱みを見せられずに強がって生きてきたのではないか。
それが脳梗塞で倒れて人に頼らざるを得なくなり、最後に頼れるのが父と母だけだったということだったのだと思う。
果たして祖母は幸せだったのか。
それは誰にもわからない。
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