これまでに登った山についてのことはほぼ書いた。
92年9月に標高2,057メートルの大菩薩嶺に登っているのだが、残念ながら山行の記録を残していないのである。
残りの山についてはこれから登って、その記録を書かせてもらいたいと思っている。
それまでは、しばらく昔の話にお付き合いいただきたい。
時々は、前回のようにパソコンの話などを織り交ぜながら続けていくことになると思う。
さて今回は、以前ちょっと触れたことのある上高地についての話になります。
写真学校のゼミ
写真学校の2年目になると、ゼミに参加することができた。
日本の古美術などを撮っているという川口政雄ゼミに応募することにした。
ところが、4月にその川口先生が亡くなってしまったのだった。
学校側から、代わりに川口先生の弟子の宮本先生による風景写真ゼミを行うという話があった。
もともと人を撮るのが苦手だったので、そのまま宮本ゼミに参加することにする。
ゼミ初日、参加者は5人だけだった。昼間の学生が1人、夜間の学生が4人でそのうち報道写真科が2人、あとは商業写真科で、そのうちの1人が僕である。
宮本先生はまだ30代で、フォト・エージェンシーと呼ばれるところに写真を預けている写真家だった。
フォト・エージェンシーとは、ポスターや雑誌、旅行パンフレットなどに使う写真を提供(貸し出し)する業務を行なっているところで、使用目的や発行部数によって料金が異なり、その貸出料に応じて写真家に報酬を支払うシステムになっていた。
リバーサルフィルム
フォト・エージェンシーに写真を預けるときは、マウントしたリバーサルフィルム(いわゆるスライド)で、広告用に使うには、35ミリよりサイズの大きいフィルムの方がお客さんが分かりやすくて有利だった。
先生が撮る写真は風景写真がメインではあったが、売れそうな写真はなんでも撮っていた。たとえばモデルを使った撮影などである。そして、そのほとんどは4X5インチのシノゴと呼ばれる大きなフィルムを使っていた。
大型カメラで持ち運びができ、操作性が優れているのはリンホフ・テヒニカだそうで、確かⅣ型を使っていたと思う。
ところで写真学校1年次はモノクロ写真の現像やプリントばかりをやっていた。それが2年になるとリバーサルフィルムを使うようになる。
食べものでもお酢が嫌いは僕は、停止液の氷酢酸の匂いから解放されて嬉しかった。
モノクロ現像とプリントは、講師は結果を見て評価をするだけということもあったが、酢酸嫌いな僕はモノクロ現像やプリントは上達しなかったので救われたようにも感じた。
ただ、リバーサルフィルムを使うようにはなったが、それはそれで色々と面倒なこともある。
特に昔のコダックのKR(コダクローム64)やEPR(エクタクローム64)などにはエマルジョンナンバー(乳剤番号)により、感度や発色にバラツキがあった。そのため、補正しなければならない(実際には感度の補正しか行わなかったが)。
その補正データが現像所(プロラボといわれるところ)に掲示されているので、フィルムはそこで買っていた。ただ、なぜかプロラボには学割というものがあり、割引で購入できたということもある。
当然、風景写真ゼミもこのリバーサルフィルムを使うことが前提となっていた。
講義では、先生の作品を見せてもらいながら、撮影条件や撮影された時間などのほかに、その場所の見所や撮影にまつわるエピソードなどの話も聞ける。
宮本先生の話は、写真を撮ることが楽しくて仕方がないといった感じで、聞いている方も楽しくて先生の話に引き込まれていった(その後、先生と同じエージェンシーカメラマンになった者もいた)。
霧氷の会
何回目かのゼミの時、上高地の田代池で撮った写真を見せてもらった。
毎年11月3日の○時○分に山の陰から上った朝日が、木々に凍りついた霧氷に差し込んで、上の方から少しずつ溶けていく。
すると、氷が溶けて水になるときのその動きが虹色になってゆらめき、その虹の粒が木々の枝に輝いている。その瞬間の写真だった。
そんな田代池の写真は今ではすっかり有名になり、見慣れた写真となってしまったが、初めてみた時は別世界の写真のように思えた。
その上高地に毎年、川口先生を慕う写真学校の卒業生らが集まってきたということだった。そして、その会を「霧氷の会」といった。
川口先生が亡くなったこの年も皆で集まり、追悼の会をするという。その会に我々ゼミ生も参加させてもらえることになった。
先生は、10月中旬から写真を撮りながら上高地入りしているというので、各自バラバラで上高地に向かった。
僕は商業写真科の同級生と一緒に夜行バスで出かけることにした。
上高地入り
バスは朝5時頃上高地の入り口、大正池ホテル前に止まる。ここで僕と同級生が降りる。
その頃はまだ、上高地に車で入ることができ、大正池ホテルの横にある駐車場には10台前後の車が止まっていた。
宮本先生はマイクロバスを改造したキャンピングカーに乗っていた。僕らはマイクロバスの扉を叩く。
すると先生が表に出てきた。表でコーヒーを淹れてくれる。とりあえず僕らの荷物をバスの中に置かせてもらい、コーヒーをいただく。
すると、少しずつそれぞれの車の中から人が現れ始める。そして一人ひとりに僕らを紹介してくれた。
報道写真科の1人は車で先に来ていた。もうひとりは遅れて昼頃にバイクに乗ってあらわれた。なお、昼間部の学生は家庭の事情で少し前に退学して田舎に帰っている。
そのときの気温は氷点下だった。僕の持っていた温度計ではマイナス7度になっている。
先輩から、「三脚を素手で持っちゃダメだよ。くっ付いて離れなくなるからね。無理に剥がそうとしたら皮が剥がれるよ。もしもくっ付いたら、我慢して解けるのを待っていれば離れるからね」と教えてくれた。
7時半か8時頃、皆が何やら急にカメラの準備を始め出す。それまでのニコニコした顔つきとは違って皆真剣な顔をしている。
あ、そろそろ撮影に行くんだなとわかった。
田代池へ
駐車場からすぐの大正池には朝霧がただよい、幽玄な風景である。枯れ木が黒い陰となって水面から生えている。遠くにはうっすらと穂高が見えた。
ここでしばらく撮影だ。リンホフテヒニカや、マミヤRZ67、ペンタ67などが並ぶ。35ミリカメラが小さく見える。
大正池から森の中の道を進んでいき、再び池の淵に出る。そこの木道を進んでいくと、沢から流れ込んだ石や砂が大正池に流れ込んでいる平らになった場所に出る。
そこを横切ると、高い木立の森になる。その薄暗い森を進んでいくと道の先が明るく光っている。そして森が途切れると突然視界がひらけ、僕は思わず息を飲んだ。そこは一面に霧氷がついた湿原で、氷の世界が目の前に広がっていた。
氷の世界を横切って進むと田代池である。そこには、ゼミで見せてもらった写真の木がそこにあった。
まだ、太陽は山の陰になっている。そしてその決まった時間になると朝日が顔を出し、木々のてっぺんに当たり出す。少し遅れて虹色の球が輝き出し、それが上から順に下へと降りていく。
夢中で写真を撮っていると、だんだん暑くなってきた。
日が当たると、木々だけでなく人間も暖かくなるのだ。たくさん着込んできていたので暑くてたまらなくなる。聞いていたとおりだ。
短い氷の劇場が終わると、皆一仕事終えたような顔をして駐車場に引きあげ始める。
氷の劇場が終わった後に見る景色は、なんだか平凡な景色に見えてしまう。夢中になっていたものから急に熱が覚めてしまったような感じだ。
駐車場に戻ると、先生はテーブルを出して食事の用意をしてくれる。食事が済むと我々学生は食器洗いを担当した。
その頃、駐車場の横にあるトイレ(当時は古かった)の前に、水道管が土の中からにょきっと伸びて、そこに蛇口があるだけの水道があった。
その水道で、手を真っ赤にしながら食器を洗った。氷点下ではなくなってはいたものの、水は冷たくて手が痛かった。
その夜はテーブルと椅子を持ち寄って、川口先生を追悼する飲み会が始まった。
川口先生の追悼ということで大勢が集まっていた。そこで話し合いが行われ、宮本先生よりも年上の方もおられたが、一番川口先生に近いということで、我らが宮本先生が霧氷の会を引き継ぐことになった。
それから二十数年間、行けない年もあったけれど、「霧氷の会」に参加させてもらったのである。
まとめ
上高地に行って、河童橋の近くだけを散策したのではもったいない。
ぜひ、田代池の湿原の霧氷を見に行ってほしい。
しかし、近年は暖かくなっているので、また、最近は僕自身も上高地に入っていないので現状はよくわからないが、霧氷は、昔のようにたいていが11月上旬に見られるというものではないと思われる。
それに霧氷がついても、霧氷のつき方にも差があって、僕が本当にすごいなと思ったのは2度しかない。
さらに田代池ではカメラマンの場所取りの熾烈な争いがあったりする(した?)。
それでも、写真では絶対にわからない、あの空気感や臨場感を肌で感じてほしいと思うのである。
最後までお読みいただきありがとうございました。
では、このへんで
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