晴天の日に大山に登り、湘南海岸の方を向けば、正面に大島がよく見える。
その大島に1度だけ船で渡ったことがある。
それは、先日職員旅行で西沢渓谷へ行った話をしたが、その同じ職場での旅行であった。
あの旅行は、全体から見れば楽しい旅行ではあったが、散々な目にあったことでとくに印象に残る旅だった。
今回は、悲惨な話の思い出です。
まこと会
その年、組織変更が行われ、それまで所属していた課が2つに分かれた。
そのため、課の親睦会の名前を新しくつけることになり、新親睦会名の募集を行なった。その結果、「まこと会」という名が2票あったので、その名前に決定した。
どうして「まこと会」としたのか。
ひとりは、新撰組の「誠」からその名前をつけたとのこと。
もう一人は、その頃人気のあった楳図かずおの漫画「まことちゃん」からその名前をつけたとのこと。
Wikipediaによると、「『まことちゃん』は、楳図かずおによる日本のギャグ漫画で代表作のひとつである。
(中略)
その後連載が決定し、『週刊少年サンデー』1976年16号から1981年30号まで連載された。1980年にはアニメ映画化されている。」
とのことで、当時、「グワシ」という指サインがはやったものである。
その、新親睦会の「まこと会」で職員旅行に行くことになり、旅行先に決まったのが伊豆大島であった。
いざ、大島へ
ちょっと正確には覚えていないのだが、組織変更が行われたのは、81年かその前後だったと思う。
まさに「まことちゃん」全盛期である。そして、例年5月に旅行していたので、このときも5月だったと思われる。
われわれ一行は、仕事が終わった後に皆で揃って出発した。そのころは、土曜は半ドンで、仕事は午前中までだった。だから、揃って旅行に行くには都合がよかった。
そのかわり、1日半しか時間がないわけで、あまり遠くまで行くことはできない。
現在、大島に行くには、東京竹芝からジェット船で最短1時間45分。大型客船だと最短6時間。熱海からはジェット船で最短45分とある。早く着くためにはジェット船に乗ればいいわけだ。
船を運航している東海汽船によれば、「大島まで最短1時間45分! “早い” “揺れない” 高速ジェット船で快適に伊豆諸島へ。」と謳われている。
さて、われわれは「踊り子」号に乗り、稲取へ向かった。当時、高速船は稲取からしか出ていなかったからだ(だったと思う)。
それに、ジェット船になんて乗ったかな?
と思い調べてみると、どうやらシーホーク2という高速船だったらしい。やはりWikipediaによれば、「大型軽合金製高速旅客船の草分けであるシーホークの代船として建造された船で、耐蝕アルミ合金製の単胴高速船である。稲取(東伊豆町)と伊豆大島を結ぶ航路を主要航路とし」とある。
やはりジェット船ではなさそうだ。
そうして、「踊り子」号から高速船に乗り換えて大島へ向かった。
高速船の悲劇
さきほどのジェット船は “早い” “揺れない”というのが謳い文句だが、当時の高速船は、”早い” ”揺れる” というものだった。
たまたまその時海がしけっていたのかもしれないが、揺れるってもんじゃない。それはまるで大海に浮かぶ木の葉のようだった。
3つ上の先輩は、座席に座り、前の背もたれの一点を見つめてじっとしていた。
ジェットコースターにも酔ってしまう僕も当然ながら気持ちが悪くてじっと耐えていた。
ちらっと窓から外を見てみると、なんと窓の外は海なのである。海が見渡せるのではなく、まるで船の窓から海中をのぞいているようなのだ。
つまり、船は波の底を走っているのだった。
なんだか絶望的な気持ちになった。ひょっとして遭難するんじゃないか、こんな荒波に投げ出されたら助かりそうもない。そんなことを考えながら必死に耐えていた。
きっと、みんながみんな苦しんでいるだろうと思っていたら、ニコニコしてはしゃいでいる者がいる。
新人の女の子だ。ジェットコースターみたいで楽しいと言って笑っている。
船は、おそらく1時間くらいで大島に着いたと思う。着いた場所は元町港ではなくて岡田港だった。どうやら元町港は波が荒くて入港できなかったようなのだ。
やはり、黒潮のせいばかりではなく、海は荒れていたということだ。
どうにか陸に上がると船に弱い者(僕を含めて)数名は、堤防の上に横になり、しばらく動けなかった。
島めぐり
その日の夜はもちろん宴会で、旅館からの伊勢海老のサービスでとても豪華だった。まあ、その頃には回復していたようだ。
そして翌日。
若手でレンタサイクルに乗り、島めぐりにでかけた。どんな自転車だったかは覚えていないが、スポーツ車ではなかった。
旅館のある元町から昨日着いた岡田港を過ぎたあたりでもうギブアップ。たぶん坂道を登りきれなかったのだと思う。
けれど、他にも問題があった。それはお尻が痛かったのだ。なんだか尻の皮が剥けたの
ではないかとさえ思えるくらいだったのである。
あの後しばらくは自転車に乗りたいとは思わなかった。
そうして、帰りの船に乗る。こんどは大型客船なので船酔いしなくてすんだ。
そういえば、30代の女の先輩が船の中でずーっと『ルビーの指輪』を聞いていたっけ。寺尾聰のこの曲が大ヒットしたのは81年だから、やっぱり81年で間違いないようだ。
まとめ
今思い返してもあの時の船酔いは地獄だった。
それに、窓から見えるのが海の中という経験は後にも先にもあのとき一度きりだ。
まあ、二度と同じ経験はしたくないが。
ちなみにジェットコースターみたいだと喜んでいた女の子は、たまたま尾瀬で出会って頭をポンと叩いた子である。
それにしてもよく大島に行けたものだと思う。
もし、天候が悪化して船が欠航したら、課の全員が出勤していないという事態になっていた。
まあ、そんなおおらかな時代であったということだ。
けれど、きっと帰ってからそんなことを皆気づいたのだと思う。二度と離島へ旅行に行こうと言い出すものはなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
では、このへんで
広告