Hakuto-日記

定年後を楽しく、生きたい人生を生きる!

白い北海道 【道南の旅1】

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青森港(プリントをデジカメで複写 以下全て同じ)
 

北海道バイクツーリングの思い出をきっかけにして、昔の旅を振り返っている。

 

なるべく、ただ自分が思い出に浸るだけの話にならないように心がけ、少しでも読者の方のお役にたてることを願っています。

 

例えば、若い頃に同じような旅をしたことがある人は、昔自分が行った旅を思い出して懐かしんでくれたら嬉しい。


また、まだ行ったことのない人には、旅っていいなと感じて実際に出かけてくれたら嬉しい。

 

そのとき、昔の旅人のことを想像して今の旅に重ねてくれたら、旅が一層楽しくなるのじゃないかと思う。

 

そんなことで、もうしばらく「昔の旅」を続けていこうと思います。

challe.info

 

上野発寝台特急

 85年2月1日、22時20分。寝台特急はくつるは上野駅を静かに滑り出した。

この日、終業後の掃除当番だった職場の同僚と飲みに行き、それから寝台列車に乗り込んだ。


はくつる号は東北本線を走る3段式のB寝台で、このときは一番狭い最上段の席(ベッド)だった。翌朝目覚めると八戸あたりで、窓の隙間から白い世界が動いているのが見えた。

 

青森に到着したのは7時過ぎで、列車と接続している青函連絡船に乗り換える。青函トンネルが開通するのはこの3年後である。


初めのうちは外の甲板にいたが寒くて長くは出ていられない。それに起きていては船酔いしそうだったので、まだ海峡に差し掛かる前にだだっ広い客室の床の上で横になっていた。

 

気分はまさに津軽海峡冬景色の中を連絡船が静かに進んでいく。

 

初めての函館

約4時間後、連絡線が函館港に入港する。青函連絡船の桟橋まで函館駅のホームの端っこが伸びていて、船はそこに横付けされた。


駅を出てまず向かったのが、新撰組副長土方歳三最期の地だ。町の外れの方に向かって歩いていくと碑が立っていた。この頃、司馬遼太郎の『燃えよ剣』に夢中で、この最期の地に立ち、土方歳三が(あの例の写真を思い浮かべ)馬に乗って官軍(明治政府軍)に突進していく姿を思い描いた。

 

なお、土方歳三が亡くなった場所には諸説があるということだが、この若松町であるとされる説が有力だそうである。

 

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www.tabirai.net

 

次に向かったのは金森倉庫群で、函館観光の定番の場所だ。

このころ止んでいた雪が降り始める。

 

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雪の中を歩いて見つけたのは、日本最古の電柱である。写真では後ろの建物と一体化してしまい見分けがつきにくいが、コンクリート製の四角い電柱で、電線をしっかり受け止めて現役として使われている。

 

あれから37年経った現在も立っているそうで、函館市公式観光情報サイトによれば、

今から約90年前の大正12(1923)年、元北海道拓殖銀行函館支店が鉄筋コンクリート造りで新築された際に、その建物との釣り合いのために北海道拓殖銀行が資金を提供し、函館水電株式会社(現北海道電力)が特別に建てたものである。
(中略)
この電柱が建てられた当時、電柱と言えば円柱であり木製であった。しかしこれは珍しい角柱形で、函館が大火の多い街であること、拓銀の建物とマッチさせることを考慮して、コンクリート造りになっている。今も現役で使われていて、歴史の重みを感じることができる。

となっている(ただし、2011年7月7日取材とあるので少し古い)。

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(出典:日本最古のコンクリート電柱 I | 函館-つくば2019_04_21 1923年10月設置 函館市末広町 [LUMIX … | Flickr


そのあと東本願寺の坂を登ってハリストス正教会に行くなど、一般的な観光コースを一通り歩いた。

 

旧金森洋物店は当時からずっと市立函館博物館郷土資料館として使われている。雪を乗り越えて館内に入ると、古い掛け時計や蓄音機、写真機などが展示されていて、時間がさらに巻き戻された。

 

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表に出るとかなり冷え込んでいて、上着のジッパーの先にリングで取り付けた温度計はマイナス2度を示していた。

 

このあと、市電に乗り無謀にも函館山の裏手にある碧血碑(旧幕府軍の墓)へ行った。

 

この時期にここまで来る人はまれで、当然雪が深い。幕末にかぶれていたとはいえ、よく行ったものだと思う。もちろん司馬遼太郎の小説の影響が大きい。

 

ところがここで、自分と同じような旅人に会い、一緒に碧血碑まで歩いた。その人が教えてくれたのは、この近くに谷地頭温泉というのがあるので行ってみるといいということだった。

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その彼はなんと立待岬まで行ってみると言ってそこで別れたが、果たしてたどり着けたのかどうか。

 

そこから函館山ロープウェイの山麓駅まで戻り、函館山の頂上へ向かう。函館に来たからには夜景を見なくちゃ始まらない。しかし、たしかロープウェイの終了時間が18時と早く、夜になるまでいられなかったと思う。

 

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函館山からの写真を見て思うのだが、どうやら三脚を使っているようだ。つまりずっと三脚を担いで歩いていたことになる。元気だったんだね。

 

この日の夜は湯の川に泊まる。温泉で冷えた体を温めた。谷地頭温泉には立ち寄らなかった。

 

この日のまとめ

なつかしい寝台特急。この時乗ったはくつる号の時刻表を掲載しているブログがあった。

triplab.hatenablog.com

 

管理人のTripLab さんが載せている時刻表によれば、この時乗った寝台特急は「はくつる1号」だったことがわかる。

次に青森へ向かう列車を紹介したいと思います。この当時はまだ青函トンネルが無かったので青森止まり、そして青函連絡船に乗り換えるという方法でした。上野から青森へは東北本線を通るルート、常磐・東北本線を通るルート、東北本線・奥羽本線を通るルートの3つがこの当時はありました。

 

寝台特急は、仕事が終わった後に出発できるのでとても便利だった。そして、あのガタンゴトンが心地よい眠りに誘ってくれるのだ。

 

はくつる号は、基本は定期列車が1日1往復で、これに臨時列車が走り1日2往復の時もあったようだ。

 

はくつる号が廃止されたのは2002年12月1日、これについては、TripLab さんが次のように説明されています。

定期列車も東北新幹線が八戸まで開業した12月1日に廃止されました。利用者の減少もあったかもしれませんが、1つには新幹線に乗ってもらいたい、そしてもう1つは東北本線の一部が新幹線の開業と同時に第三セクターに移管されたことが廃止の理由だとされています。

また、青函連絡船に乗ったのはこの時が最初で最後の体験になった。

 

このように、そのときでしか体験できないことってたくさんあるんだなと思う。

今できることは今やらないと、後からではもうできなくなるかもしれないということだ。

 

では、このへんで(次回につづく)

 

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