令和七年八月十九日、風雷紡第十八廻公演「糸洲の壕 ウッカーガマ」を観た。
この日は8月16日から始まった公演の最終日で千秋楽。
一夜明けて、少し落ち着いた気持ちで感想などを記しておきたいと思います。

公演の概要
この作品は2025年8月16日から19日まで開演されていました。中二日は2回公演で通算6回の舞台でした。
劇場は「座・高円寺」。チケットは前売・当日共に4,500円(17日19:00のみ4,000円)、25歳以下2,000円、高校生以下1,000円ということで、これは若い人に観てもらいたいという気持ちの表れなのかなあと思います。
この作品は、先の沖縄戦でのふじ学徒隊の様子を描いたもので、史実を基にしたフィクションとのことです。そこで、まずはあまり知られていないと思われる史実について簡単に紹介します。
沖縄戦の経緯
以下、内閣府HP(沖縄戦の概要:沖縄戦関係資料閲覧室 - 内閣府)から一部引用します。
沖縄県では、太平洋戦争末期に県民を巻き込んだ地上戦が行われました。
開戦以来、進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなりました。
このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とし、昭和19年3月に南西諸島に沖縄防衛のため、第32軍を創設しました。(中略)
3月26日慶良間列島に上陸した米軍は、4月1日に1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって沖縄本島に上陸を開始しました。ここから約 3~5ヶ月にわたる沖縄戦が始まりました。
(後略)

提供:沖縄県平和祈念資料館
ふじ学徒隊
ふじ学徒隊については、福田展也氏が書かれた「もう一つの沖縄をたどる旅.7
ふじ学徒隊と糸洲の壕(ウッカーガマ)」がよくまとめられているのでこちらのHPを紹介すると共に、一部を引用します。
学徒隊とは激しい地上戦がくりひりげられた沖縄戦で法的根拠がないままに「志願」という名目で軍隊に配属された旧制中学生のこと。
鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊に比べると存在があまり知られていないふじ学徒隊は陸軍の第二野戦病院に配属され、沖縄本島の豊見城と糸満で傷病兵の看護に当たりました。
ふじ学徒隊とは私立積徳高等女学校の学徒隊のことで、平成24年(2012)に製作された映画「ふじ学徒隊」(監督:野村岳也/製作:海燕社)から呼ばれるようになったとのことです。ちなみにそれまでは単に「積徳学徒隊」と学校名で呼ばれていたようです。
良く知られる「ひめゆり学徒隊」も戦後につけられた名前です。
引用を続けます。
1945年3月23日、ふじ学徒隊は第二野戦病院に配属されました。いつもの年ならば卒業式をすませ、新たな人生のステージを前に、期待に胸を膨らませていたはずの4月1日。アメリカ軍が沖縄本島に上陸しました。
ひと月ほどは平穏な勤務が続きましたが、5月になると野戦病院に運ばれてくる負傷兵の数は日に日に増えていきました。 病院の中、といっても、人の手で斜面に横穴を掘ってしつらえた人工壕でしたが、その中は腐敗した傷、患部の膿、垂れ流される排泄物の匂いが充満し、重苦しいうめき声や「痛い、痛い」という大きな叫び声が響き渡っていたそうです。そのような状況のもと、学徒隊員は看護や治療にあたっていました。
アメリカ軍の圧倒的な兵力を前に日本軍は次々に敗退。5月22日には司令部が置かれていた首里を放棄し、本島南部へと撤退していきました。5月27日に第二野戦病院も糸満方面を目指すことになったのです。
撤退にあたって、島尾中尉という軍医は、重傷の負傷兵を薬殺するように隊長から命令を受けました。けれども、元学徒隊員の真喜志善子さんの手記によると、島尾さんは青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く戦え」と励ましてその場を去ったそうです。梅雨の時期の逃避行は想像以上に過酷でした。砲弾が飛び交う中、糸満の糸洲壕にようやくたどり着いたそうです。
ふじ学徒隊がほかの隊と大きく違うのはその生存率で、ひめゆり学徒隊が222名中123名が亡くなったのに対し、ふじ学徒隊では25名中3名(うち1名はのちに自死)という少なさです。
どうしてふじ学徒隊ではこんなに生存率が高かったのでしょうか。
逆にどうしてほかの隊はそんなに生存率が低かったのでしょうか。
ひめゆり隊では6月18日に学徒隊の解散命令がでました。ほかの学徒隊も翌日には同命令が出ていたようです。それはつまり学徒たちは戦場に放り出されたということです。多くの学徒隊の女学生は解散後に亡くなっているとのことです。
これに対してふじ学徒隊の解散命令は6月26日に下されました。この頃になると米軍の攻撃も激しさはなくなっていたようです。ふじ学徒隊が壕をでて亡くなったのは、戦闘に巻き込まれた1名であったとのことです(あとの1名は親に会うと言って壕を出て行った者)。
解散命令を下したのは、長野県佐久市出身の軍医小池勇助少佐です。小池少佐は解散命令を下す際に次のように言ったそうです。
『「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰りなさい。そして、凄惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」
隊長はその後、学徒隊の一人ひとりと別れの握手をしたそうです。』(福田展也氏の記事を引用)
なお、小池少佐はふじ学徒隊を募集する際に、訓練を受けた私立積徳高等女学校の生徒56人に対し入隊の意思を確認し、結果、31名が除隊。25名が従軍して学徒隊として勤務しています。
以上がふじ学徒隊に関する史実(注)です。
(注)ここで史実と書きましたが、筆者は第1次資料を確認したわけではありませんので、正確な情報を知りたい方は自身でお調べ願います。
舞台「糸洲の壕」
#風雷紡『#糸洲の壕』千穐楽の朝🌸
— 桃川あすみ (@asumi_momokawa) 2025年8月19日
本日14:00回の1公演。これで終わりです。
若干ですが当日券ご用意できます。
身体も動くし声も出る。今日もハツラツと!
私たちから未来へ繋ぐ物語。
ひとりでも多くの人の心に届けられますように。
座・高円寺でお待ちしております。 pic.twitter.com/8o7svyBjwO
舞台では概ね史実に沿って進行します。
おそらくフィクション部分がいちばん伝えたかったことなのではないかと感じています。
少しだけネタバレしないと伝えられないので、お許しください。
物語は家族旅行で沖縄に来た祖母と孫娘の会話という場面設定です。祖母が孫にどうしても話しておきたいと言ってふじ学徒隊の話をします。
このふじ学徒隊として従軍していたのは祖母の母でした。孫娘から見れば曽祖母。どうしてもそのことを伝えておかなければならないと思ったのです。
学徒隊の解散時、みなここで死のうと言いました。それを止めたのが小池隊長でした。みながそこで新たに生きる決意をし、生き延びることができました。やがて子供が産まれ、子から孫へ命が受け継がれていきます。
ひとつにはこうした命のバトンを繋いでいくことの大切さを伝えたい。とくに若い人たちに伝えたいとこの脚本を書かれた吉水恭子氏は考えたのではないでしょうか。
そしてもちろん戦争の悲惨さを後世に伝えることの大切さも訴えていると思います。わたしたちはこの悲惨な出来事を「そんなこともあった」と思うだけではならないと思います。こうした悲しい出来事からなにを学ぶか、これからどう活かしていくべきかを考えなくてはならないと思います。
今回の舞台では、押し付けるようなメッセージは感じませんでした。それは登場する人物がさまざまな考え方をもって行動していたからでした。
なぜ沖縄を決戦場にしたのだという本土に批判的な沖縄の兵士、家族を本土に避難させたことにやましさを感じている沖縄の兵士、傷病兵に対し治療は無駄だという軍医、精一杯傷病兵につくす軍医、看護する学生に悪態をつく兵士、逆に労わる兵士、懸命に働く学生、極限状態でも規律を守ろうとする兵士、などなどさまざまな考え方を持った人が壕の中にあふれています。
それはそれで仕方のないことです。同じ人間はいないのですから。
しかし、極限の状況の中で、この日本を守っていくという一点を考えたならば、小池隊長がとった行動は、日本の未来につながるものでした。当時の世論や風潮を考えた場合、勇気ある行動だったと思います。そしてすばらしい指導者であったと思います。
この指導者の違いで多くの学徒隊の命が失われました。そのことを胸に刻みたいと思います。
この舞台を見た人たちそれぞれに違う思いが迫ってきただろうと思います。各人にそうした思い思いの考えを抱かせてくれる良い舞台だったと思いました。
最後に
この舞台を見るまで知らなかったことがあります。
それは方言禁止ということです。
戦時中、沖縄では方言が禁止されていたのですね。
沖縄言葉しか話せない老人が日本の兵士に殺されたという話もあるそうです。
民間人に玉砕を強要したという日本兵がいても何も不思議ではありません。
かといって日本軍が組織的に沖縄に住む人を見殺しにしたということにはならないと思います。
小池隊長は学徒隊を2、3人の班に分けて壕から退避させ、その後青酸カリで自決しました。
この小池隊長は佐久の眼科医でした。
いかにして戦争を起こさないか、起こさせないかを皆で考えて話し合うべきであると考えます。
参考
では、このへんで
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