俳句結社会員誌「花鳥(2019年6月号)」に掲載されたされたエッセイ。
自己紹介がてら以下に全文を掲載します。
「自転車日本一周計画と芭蕉紀行」 本間白陶
今年三月末に定年退職を迎えた。私の働いていた職場は六十歳が定年であるが、申請すれば六十五歳まで再雇用される。このような制度が始まってから十三年で、希望者全員が対象となったのはほんの六年前のことである。
定年を迎えたら好きなことをして暮らしたい - きっと多くの人がそう思って働いてきたのではないだろうか。もちろん私もそうである。しかし、世の中が変わりその気持ちが揺らいでいた。
いよいよ定年まであと一年に迫った頃、もう一度自分に問いかけてみた。
「やっぱり好きなことをしたいなあ」
そう思ったものの好きなこととはいったい何なのかが分からない。自分は何がしたいのだろうか、考えてみたが思い浮かばない。
そこで人生の棚卸しをしてみた。仕事は事務で特にこれといった技術はもっていない。趣味はどうか。釣りにキャンプ、バイクツーリングやサイクリングなど主にアウトドア。写真と俳句も気づけば二十年以上やっていて、こちらも半分アウトドアだ。そんなことを考えて、トイレに座っていたら、「自転車で日本一周したら面白いかも」という考えがふっと天から舞い降りてきた。
わくわくして調べると、日本を一周するとおおよそ一万二千キロになるそうだ。早い人では三カ月で一周する。そうすると一日百三十キロ程走ることになる。超人である。私にはとうてい無理であり、また、そんなに急ぐ必要もない。
次は走るコースである。この時もまたトイレで名案が浮かんだ。奥の細道である。芭蕉の歩いた道を辿ってみたい。そうだ、奥の細道だけでなく芭蕉の歩いた道を出来るだけ辿ってみよう。
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芭蕉については当然ご存知の方も多いと思うが、ここで芭蕉の旅の記録、紀行文について簡単にまとめておきたい。
芭蕉は一六四四年、伊賀上野に生まれ、二十九歳で江戸に下った。四十一歳の時に『野ざらし紀行』、四十四歳の時に『かしま紀行』、続けて『笈の小文』の旅。四十五歳で『更科紀行』、そしていよいよ四十六歳の時に『おくのほそ道』の旅に出る。
『野ざらし紀行』とは、前年に亡くなった母親の墓参りに行く旅であるが、諸国放浪をした西行の足跡を訪ねる旅でもあった。
野ざらしを心に風のしむ身哉
と、行き倒れて白骨となる覚悟を心に秘めて出立する。芭蕉は名古屋で歌仙を巻き、このとき、二十八歳の杜国に初めて会っている。
『かしま紀行』とは、江戸で懇意であった仏頂和尚から「月見においで」と誘われて、鹿島の根本寺に出かけた旅である。
『笈の小文』の旅の目的は、亡父三十三回忌追善法要のためであるが、杜国に会うための旅でもあった。杜国は米穀商であったが、米の空売りの罪で伊良湖崎近くの保美に流刑されていた。芭蕉は杜国と再会後、再び伊勢で落ち合い、二人で吉野の花見をし、須磨、明石に遊ぶ。その後、杜国は芭蕉と別れて伊良湖に戻り、数年後に亡くなる。
年の夜や吉野見てきた檜笠 杜国
『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は京都にしばらく滞在した後、岐阜を起点として『更科紀行』に出立する。木曽路を通り姨捨から「田毎の月」を鑑賞して善光寺に詣で、小諸から碓氷峠を越えて江戸へ戻る旅である。
『おくのほそ道』については説明は不要とおもうが、この紀行文はかなり脚色が入っているため、芭蕉の足跡を辿るには曾良の旅日記を参照する必要がある。
今回の私の計画は、芭蕉庵のあった深川から平泉までを辿り、その後北上して青森を回り、日本海側を進んで象潟から再び芭蕉の跡を辿る。途中、新潟からフェリーを利用し北海道を一周して再び新潟に戻る。敦賀から大垣には向かわず山陰の海沿いを走り、九州を一周したらしまなみ海道で四国に渡る。再び尾道に戻って山陽本線沿いを東に走る。
『野ざらし紀行』と『笈の小文』は明石から芭蕉とは逆のコースを辿る。『かしま紀行』と『更科紀行』は今回の旅のコースからは外すこととした。
芭蕉が『おくのほそ道』に出立したのは三月二十日で陽暦の五月九日にあたる。私もこの頃に出発し、寒くなる前には戻ってきたい。すると旅の期間は半年ほどになる。
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さて、ここまで一人で楽しい計画を練ってきたが、ここで最大の難問が待っていた。それは、どうやったら家内に承諾してもらえるか、ということである。そこで作戦を練り、仕事を辞めることと自転車旅行については切り離し、まず仕事を辞めることについての承諾を得ることにした。こちらは、「定年を迎えたら少しのんびりしたい」と伝えたら理解してくれた。
次に、半年家を空けることについて、どう説得したらよいか。いろいろと準備もあるので十月には伝えたい。そう考えていた九月下旬、大阪富田林署から逃走した容疑者が山口で逮捕された。それがなんと自転車で日本縦断中と装って逃走していたのである。
これはまずい、自転車旅行のイメージがガタ落ちだ。ますます言い出しづらくなる。
そしていつの間にか十二月。助けを求めて知人に相談する。
初めに相談したときにいただいたアドバイスは、「月に一度くらい旅先に奥さんに来てもらって、一緒に観光でもしたらどう?」というものだった。なるほど、なかなかいいなと思った。
次に相談した方からは、「何気なく自転車日本一周の本などを奥さんの目に留まるように置いておいたらどう?」というアイデアをいただいた。うんうん、それも一考。
三人目の方に相談すると「なんで一緒に行かないの?」という返事が返ってきた。一瞬、「えっ」と言葉に詰まってしまった。
当然家内は自転車旅行なんて行くわけがないと思い込んでいたのでびっくりしたのである。
そして年が明けた。
年末に妻の気持ちになって考えてみた。『いくら定年退職だからって、ひとりで半年も遊びに行くなんて自分勝手な人ね。そもそも定年退職を無事に迎えられることだって、私が家事や健康管理を行ってきたからじゃないの』
そこで妻への感謝の気持ちを込めて二人で旅行することにした。その旅行計画を話しているとき、いよいよ意を決し話しかけた。
「実は、定年退職したら自転車で日本を一周したいと思っているんだけど、一緒に行かない?」
「行かない」あっけない返事だった。
「それじゃ、月に一度くらい旅行先に来て会わない?」
「行かない。どのくらいの期間行っているつもり?」
「半年くらいかな。もうちょっとかかるかも」
「気を付けて行ってきてね」
とまあ、こんな具合でオーケーが出たのである。まさに胸を撫で下した瞬間だった。
読者がこの稿を読んでいる頃はまだ日本のどこかをふらふらと走っている、はずである。
(注)会員誌は月初めに届きます。旅を中断したのは6月5日なので、ギリギリまだ走っていたことになります。