昨年12月からは日本100名山は小休止。
冬の間は俳句をがんばるぞ。
そう思って句会に参加してきた。
しかし、山に熱中している間、すっかり俳句のことは頭から離れてしまった。
そんなことで頭が俳句モードにもどるには少し時間がかかった。
俳句結社主催の句会
12月の俳句結社主催の句会は、前にも書いたことがある東高根森林公園というところを吟行し、近くの句会場に集合して行われた。
前にきたのは6月、半年ぶりだ。
そして今回は冬ということで、同じ公園でも景色がだいぶ違う。
今回も到着したのが遅くなり、ゆっくり吟行する時間はなかった。
どちらかと言えば、作ってきたおにぎりを食べるために来たようなものである。
しかしそれはそれで楽しかった。
俳句仲間には入り口付近で出会ったが、こちらは到着したところ、向こうはすでに吟行を終えたところだった。
あせって園内を周る。急いで句を作らなければ。
入り口付近の欅は葉がすっかり落ちて、箒を逆さに立てたようにして冷たい空に枝を伸ばしていた。
句になりそうなものは見つけられるのだが、それを句にするのは難しい。
結局、句にできないものも多くある。
同じ場所を吟行して句会を行うと、自分と同じ風景を見たのだとわかる他の人の句がでてくるので、それをどのように仕上げたのかがわかり、参考になる。
なるほどと唸ることしばしばである。
成績振るわず
本来俳句とは、非常に短い「詩」である。
「詩」とは、生き方である。
生き方が考えになり言葉になる。
けれど、俳句を芸術として仕上げるには、きまりの中でレトリックを駆使することが必要でもある。
なぜなら、自分以外の人に読んでもらって、できれば読み手の心を動かしたいという目論見があるからである。
だから、ひとりでも目的にかなえばそれで十分なはずである。
それなのに・・・
どういうわけか、俳句会は選者がいて成績をつける。
成績とは並選を選び、さらに特選を選び出すこと。
それに互選というものもある。
それは句会に参加した選者以外のものが選び出すこと。
こうした選に入らないと名乗りをあげることができず、ただだまっているだけになる。
こうなると非常に寂しい思いをする。
おそらくそれで俳句をやめてしまう人も多いのではないだろうか。
12月はほぼそれに近い状態で落ち込んでしまった。
けれど、普段から成績が良いわけではないので、大きく落ち込むことはなかったけれど。
思いがけない報告
1月になってメールが届いた。
先日行われた俳句結社主催の句会で投句した句を幹事さんが整理して送ってくれた。
ただ、句会には参加されなかった俳句結社の主宰が、後から選句したものが加わっている。
なんとそこに自分の名前があった。
特選というものに選ばれるのはしばらくぶりである。
単純に嬉しい。
こういうことがあると、俳句を続けていこうという気持ちになる。
げんきんなものだ。
多くの人もぼくと同じように感じているのではないだろうか。
いつも特選に入る人はいるけれど、そういう人たちだってもっと高いレベルで一喜一憂しているのではないだろうか。
つまり俳句には芸術的な面と特選に選ばれたいという打算的な面の両面があることになる。
句を仕上げるまでは孤独で、句会という場は参加者同士がつながる場と言える。
おそらくそこが俳句の魅力なのだと思う。
それは、自分一人で俳句を楽しむよりもさらに楽しさを感じられるし、より健全な楽しみ方なのではあるまいか。
そして、まったく振るわないときがあるからこそ、特選になった時の喜びが大きいのである。
そのバランスが合っている句会に参加していることが人生を豊かにしてくれると思うのである。
最後に
最後に、特選となった句を紹介してこの稿を終えたいと思う。
ちなみに特選句は選者によってたいてい違うことも断っておきたい。
選者が変われば特選句も変わる。
それだけ基準というもが曖昧なのも俳句の特徴である。
「寒禽の古代広場の空に消ゆ」白陶
では、このへんで
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