[写真提供 PIXNIO]
イギリスの自転車競技の強化はロンドン五輪開催前に始まりました。
その結果、ロンドンの前の北京大会からメダルの数が増加しました。
そして、ロンドン、次のリオデジャネイロでもイギリスの活躍はめざましいものがあります。さらにそこに、ツール・ド・フランスでの活躍が重なります。
それまでイギリスは1908年に金メダルをひとつとっただけでした。
それがなぜ、こんなにも躍進したのでしょうか。
今回はその秘密に迫ります。
【目次】
小さな変化が大きな違いをもたらす
2003年、英国自転車連盟(British Cycling)は、デイブ・ブレイルスフォード監督を起用したことで大躍進を遂げることになります。
当時、イギリスの自転車競技は100年近く成績が振るいませんでした。
1908年以来、オリンピックの自転車競技でとったのはたったひとつの金メダルだけという状態だったのです。
あまりにも成績が振るわないため、イギリスチームに自転車を提供するのを拒否するメーカーもあったそうです。「イギリス人が乗ると他の選手がうちの自転車に乗らなくなってしまう」と言われてしまったそうです。
デイブは、そんな状況の時に監督に就任したのでした。
監督は、小さな改善の集まりという戦略をとりました。それは、どんなことにも改善の余地を見出そうというものでした。
まずは自転車に関係するものをできるだけ細かく分ける。そしてそれぞれ1%ずつ改善する。そしてそれが全部合わさった時に素晴らしい改善になると監督は考えました。
彼は小さな修正をすることから始めました。
- サドルを座りやすいように改良する。
- タイヤにアルコールを塗って滑りにくくする。
- 選手に電熱入りのオーバーパンツを履かせて走行中の筋肉温度を快適に保つようにする。
- バイオトレーニングセンターを使ってある選手がどのくらいトレーニング効果があるかを記録する。
- サイクリングスーツを空気抵抗の少ない室内向けのものにする。
- 少しでも回復の早いマッサージジェルを見つける。
- 風邪をひかないために医師に手の洗い方の指導を受ける。
- 夜に熟睡できるように各選手の枕やマットレスを指定する。
- チームトラックの内装の壁を真っ白にしてわずかなチリも見つけられるようにする。
このほかにも何百と数えきれない改善を積み上げていきました。
そしてその結果ははっきりと現れます。
監督が就任してわずか5年後、2008年の北京オリンピックでロードレースとトラックレースを制覇します。自転車競技の60%をイギリス人選手が獲得しました。
2012年のロンドンオリンピックでは、イギリス人選手の9人がオリンピック記録を、7人が世界記録を樹立し、自転車競技全体の記録を塗り替えることになりました。
同年、ブラッドリー・ウィギンスがイギリス人として、そしてイギリス人チームとして初めてツール・ド・フランスで優勝します。
翌年はチームメイトのクリス・フルームが優勝しました。クリス・フルームもイギリス人です。彼はその後も2015年、2016年、2017年と勝ち続けます。チームは6年間で5回もイギリス人が優勝することになりました。
(出典:ジェームズ・クリアー著『ジェームズ・クリアー式複利で伸びる一つの習慣』)
ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣 (フェニックスシリーズ) | ジェームズ・クリアー, 牛原 眞弓 |本 | 通販 | Amazon
なお、著者のジェームズ・クリアー氏は、出版直前に上記内容についてブログにコメントを寄せています。それは、イギリス人のドーピングやグレーゾーンについてです。
その記事はこちら↓
https://jamesclear.com/atomic-habits/cycling
どうも自転車界は昔からドーピング疑惑がつきまとっており、多くの選手がドーピングをしていると公言している人もいるようです。
ジェームズ・クリアー氏も完全にクリーンだとは言い難いと述べています。
けれども、イギリス人の素晴らしい成績は以下の通り数多くの選手によるものでした。このことから考えると、小さな改善の積み重ねの結果が大きく作用したか、組織的なドーピングが行われていたかのどちらかになるのではないかと思われます。
女子の一番下のオムニアムとは聞きなれない競技名ですね。自転車トラックレースの複合競技で、1日に行われる4つの種目の成績(ポイント)により順位を決定する競技だそうです。
デイブ・ブレイルスフォード監督とは
さて、弱小チームが5年で金メダルを取るまでに成長するなんてとんでもないことですよね。監督のデイブ・ブレイルスフォードとは何者? って思いませんか。
彼の独自の強化理論について、2015年に行った講演のなかで語っています。
まずは、彼自身のことについて、
「僕の選手生活はとても平凡なものだった。ツール・ド・フランスで勝てると思っていたが、叶わなかった。ウェールスの北で生まれ育ち、リュックサックと自転車だけを抱えフランスに飛んだ。」
として、自分が平凡な選手であったことを語っています。そして選手として3年間走り、フランス語が話せないことからトレーニング理論や栄養学、スポーツ生理学についての本を読み漁って孤独を紛らわせていたのだそうです。
選手を辞めてからは大学でスポーツ科学とスポーツ心理学を学び、さらにMBA(経営学修士)を取得しました。
ロンドン五輪に向けた国による「大規模な支援」があると聞いたイギリス自転車連盟は、自転車競技の強化に乗り出します。そのころ、国内にプロの自転車コーチさえいなかったそうです。
彼が監督に就任し、まず最初にイギリスにいる「スポーツ分野の大学院生」をたくさん採用しました。「科学とテクノロジーで選手のパフォーマンスを向上させよう」ということだったそうです。
そして、イギリス自転車競技強化の五ヵ年計画を作りました。作成した5ヵ年計画の中で「イギリス人によるツール総合優勝」を掲げ、全世界に向け宣言しました。フランスやスペイン、イタリアからはあざ笑われたそうです。
そしてそれを成し遂げた史上初、イギリス人によるツール・ド・フランス制覇。それが、ブラッドリー・ウィギンスでした。
彼は言います。監督の本質的な役割は「人の話を聴く」にある。専門家や選手たちの知識を集めてその中からより良いものを取り出せるように管理・組織化することが監督の役目であるのだと。
イギリスチームの「表彰台への3つの原則」
具体的には何をどのように行ったのでしょう。
ここからは、『最初から完璧さを追求しない、「1%の改善」が金メダルにつながる」』という2016年の記事を交えながら、監督とイギリスのチームが行ったことをみていきたいと思います。
彼は、MBAの勉強を通して、「カイゼン」をはじめとする、プロセス改善の手法に興味を持っていました。
そこで大きくではなく小さく考え、わずかな改善の積み重ねによって継続的に進歩していくという哲学(marginal gains)を自転車競技に採用しました。
完璧さを追求するのではなく、競技に必要とされるあらゆる要素を噛み砕いて分析し、各要素を1%改善すれば、その積み重ねによってパフォーマンスを劇的に向上できると考えたわけです。
彼らが行ったカイゼンは、
- 風洞試験により空気力学に基づき小さな改善を行うこと。
- チームが使うトラックの整備エリアが、床にたまったほこりのせいで自転車の整備が無駄になっていることを突き止め、床を白く塗り、汚れが目立つようにした(ジェームズクリアー氏の説明では壁を白くしたとあり、どちらが正しいのかは不明)。
- 大会中の体調不良を防ぐため、医師を招いて選手に正しい手の洗い方を指導してもらった。
- オリンピックの期間中は、握手も禁止。
- 食事についても厳密に管理。
- 選手が毎晩同じ姿勢で眠れるように、専用のマットレスと枕を導入した。
- 水とスポーツドリンクでボトルの色を変えた。
- 練習後はローラー台でしっかりクールダウンさせた。
大切なことは、「目標到達に何が必要なのか、徹底的に考え抜く」ことだと言っています。そこには「表彰台への原則」と呼ぶ3つの柱がありました。
1つ目の柱は「戦略」です。各大会で求められていることを分析し、そこで優勝するために必要なことをじっくりと考えること。
たとえば、優勝するタイムを出せるスタートを切るのにどのくらいのパワーが必要となるか、そのパワーを出せる選手がいるか、その時点での実力と目標のレベルとの差をしっかりと把握すること。もしその差を埋められなかったら、非情な決断をしなければならない。
2つ目は「人のパフォーマンス』。選手が極限にさらされた時に”ベストな選択”をするため、特に人間の脳の機能に注目したそうです。行動心理学や、最高のパフォーマンスを引き出す環境づくりを考えました。
3つ目の柱が「継続的改善」。これはマージナルゲイン(1%の小さな改善の積み重ね)ともいい、上記で説明した「カイゼン」になります。
戦術についても触れており、戦術を練る際は必ず「目標の分析」から始めるということです。「勝利には何が必要か?」について時間をかけて考えて、実行可能な具体的なレベルになるまで考えた上で、それから初めて勝利に向かって行動を開始するのだということです。
目標を明確にし、目標達成に必要な課題を見つけることがスタートラインだということです。だから、目標達成に必要なものがわかるまで徹底的に分析を行うのだと。
そうすれば、優勝するためには何が必要なのか、オリンピックでメダルを取るためには何が必要なのかがわかり、いま持っているものとの違いがわかる。そうやって目標と現実とのギャップを見極める。
ただ、選手と目標とのギャップが「戦略と実践」によって埋められるのならすぐに実行すれば良いのですが、それが不可能な場合は、選手のリクルートや選手の育成の検討、目標の再検討などを行わなければならないと非情にならなければならないことも語っています。
COREの原則
自分の理想像を思い描いて、その要素を6つ書き出してもらうと、多くの人は5つで手が止まるのだそうです。
なぜ6つ全て書けないのでしょうか?
それは原因は脳の構造にあり、大脳辺縁系と前頭葉の対話(モノローグ)のせいだということです。前頭葉は人間の感情を司っており、結論を出すところ。
一方、頭頂葉はコンピュータのように情報を保存しておく場所で、モノの価値や、学習行動もここに保存される。また習得した反復運動もこの頭頂葉が行っていて、そのおかげで前頭葉を使うことなく運動が行えるのだそうです。
つまりここ部分のおかげで最善のパフォーマンスが可能になるということ。
この脳の構造を元に「COREの原則」を作成しました。
commitment(献身)
ownership(当事者意識)
responsibility(責任)
excellence(卓越した結果)
COREとは上の単語の頭文字をとったもの。
彼は中でも当事者意識(Ownership)が何よりも重要だと言っています。
ツール・ド・フランスで優勝したブラッドリー・ウィギンスのトレーニング作業負荷を6年間に分析した結果、彼は素晴らしい能力を発揮することができるが、それは誰かに指示された時ではなく、彼自身がそう望んだときだけ力が発揮されるということです。
これは、従来のコーチングやマネジメントの常識である「選手への指示や統制・管理」は役に立たないということを意味しています。
人間は人からモチベーションを与えられたり、人の都合に沿った行動などは行わないもの。だから選手やコーチ、スタッフの一人一人が持つ異なった意見を集めてそれを活かすことが大切なことであるのだと。
例えば、あるレースの選手選考があったとき、選手は普通「自分が選ばれるかどうか」不安になります。
けれどもし選手全員がその選考がどういった基準で行われるのかを完全に理解し、選考する人への信頼があったらどうでしょう。
このように監督として行ってきたことは、人間の性質に応じたチーム運営をしていることだと述べています。そして、人が常に同じでないように、これらのマネージメント理論も常に変化するのだと。
(出典:スカイのデイブ・ブライルスフォードGMが語る「黄金時代の作り方」 - plenty of...
および
最初から完璧さを追求しない、「1%の改善」が金メダルにつながる | HBR.org翻訳マネジメント記事|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー)
チームスカイの監督に
2010年、イギリスでロードレースのプロチームが生まれます。イギリスの放送局がスポンサーのチームスカイです。
そのとき、デイブ・ブレイルスフォードはイギリスナショナルチームからチームスカイの監督に就任します。
興味深いことに、トラック競技のチームからツール・ド・フランスのチームに移った当初、改善はまったくうまくいかなかったそうです。
最初の数レースは、期待を大きく下回る結果に終わりました。
そこで、率直に現実に向き合ったところ、枝葉を見てばかりで幹を見ていないのだと気づいたそうです。
そのとき、何から何まで改善しようとしすぎていて、本質ではなく周辺の些細なことにまで気を取られすぎていたのだそうです。
改善を行うには、まず最重要の成功要因が何かを見極めること、改善はそれらを中心に据えたうえでその関連する要素について行うべきである。
これは厳しい教訓となったそうです。
その後、チームスカイはスポンサーが変わり、チームイネオスとしてデイブ・ブレイルスフォード監督のもと活躍を続けています。
ツール・ド・フランスの総合優勝の結果
99回 2012年6月30日~7月22日 ブラッドリー・ウィギンス (スカイ・プロサイクリング)
100回 2013年6月29日~7月21日 クリス・フルーム (スカイ・プロサイクリング)
101回 2014年7月5日~7月27日 ヴィンチェンツォ・ニバリ (アスタナ・チーム)
102回 2015年7月4日~7月26日 クリス・フルーム (チームスカイ)
103回 2016年7月2日~7月24日 クリス・フルーム (チームスカイ)
104回 2017年7月1日~7月23日 クリス・フルーム (チームスカイ)
105回 2018年7月7日~7月29日 ゲラント・トーマス (チームスカイ)
106回 2019年7月6日~7月28日 エガン・ベルナル (チーム・イネオス)
まとめ
最後までお読みいただきありがとうございます。
『ジェームズ・クリアー式複利で伸びる一つの習慣』で紹介されている1%の改善の積み重ねは、確かに重要なことだと言えます。
習慣の驚くべき力について書いた本なので当然のことですよね。
けれど、イギリスの自転車競技が強くなったのはそんなに簡単なことではなかったことに気付かされます。
日本式の「カイゼン」で強くなったのならなんだか鼻が高いのですが、それだけだはなく、秘訣はチームの意思の統一と選手やコーチ、スタッフの意見の尊重、そしてお互いの信頼にあったことがわかります。
すばらしい監督ですね。
では、このへんで
広告